私は昭和41年12月20日柳川で、3人兄弟の次男坊として生を受けました。生まれた時の体重は3400g。結構大きな赤ん坊だったと思います。祖父・祖母・父・母・兄・弟と私の7人家族の中でのんびりすくすく育ちました。
しかし、3人とも男兄弟なので、小さい頃はよく母や祖母から「あんたが女の子だったら良かったのにね」と本気半分、冗談半分のような感じで、言われていました。
私の当時の成績は「オール3」という、特に得意な科目がある訳でもなく、不得意な科目がある訳でもなく、いたって平凡な成績でした。今振り返ってみれば、のんびりしていて「物事を深く考えていない少年」という表現が適切であるように思います。今でも印象に残っているエピソードとして、音楽の授業であった「笛のテスト」の1件があります。私は全く練習しないままテストに臨んだのですが、当然練習していない状態で吹けるはずもありません。クラスメイトが次々と合格していくのを目の当たりにして初めて「このままじゃマズいな」と危機感を覚えて、慌てて自宅で練習し、2回目のテストで無事に合格しました。このように、私はどんな事でも周囲よりワンテンポ遅い少年だったと記憶しています。
父は当時から海苔を加工する機械を作る会社を経営しており、かなり多忙な生活で、父兄参観などには一度も出席する事はありませんでした。しかし如何せんのんびりしていて「物事を深く考えていない少年」だったので、その事について特に悲しかったり、寂しい気持ちというのは無かったように思います。
中学は近所の公立中学校に進学しました。ちなみに、公立の中学校に行ったのは三人兄弟の中で私だけです(笑)兄や弟は勉強ができて、学校の成績も良かったので中高一貫の中学校に通いました。私が小学生の時に、担任の先生から「お兄ちゃんがあんなに勉強出来るんだから、お兄ちゃんに勉強を教えてもらえば良いのに」と言われていた位です。
今振り返ってみれば、実はその事については「僕は勉強が出来ないのではなく、勉強の仕方を知らなかったんだなあ~」と思っています。当時は私立の中高一貫校に行けなかったコンプレックスがありました。ただそれでも日常生活においては何不自由なく生活していたので、なおさら勉強については何も考えない、いや考えたくない少年だったのだと今にして思います。
所属していた部活動は科学部でした。もともと機械いじりや工作が好きだったのです。ラジオなどのキットを買ってきて、自分で組み立てていました。この時なりたかった職業は「エンジニア」でした。成績も小学生の時と同じ「ほぼオール3」という平凡な成績だったのですが、不思議な事に中学三年生の時から、特に勉強していた訳でもないのに成績が上がり出したのです。今から思えば、当時兄から「伝習館高校くらい行っておかなきゃダメだ!」と言われ、私も「伝習館高校に行っておかないと、家に入れてもらえくなるかな?」なんて事を思っていました。ひょっとしたら、私が初めて危機感を持った瞬間かも知れません。
実はこの時からも特に猛勉強を開始した、という訳ではないのですが、危機感を持った事で意識が変わり、ひとつひとつの授業に対しての姿勢が変わった事が原因で、成績が上がり始めたのだと思います。
無事(?)伝習館高校に合格した私は、風邪をひきやすかった事も有り母親からあまりにも「身体動かせ、身体動かせ」と言われていた事がきっかけとなり、弓道部に入部しました。なぜ弓道なのかと言っても、大それた理由がある訳でもなく、「とりあえず運動部だし、まぁ弓道くらいは出来るかな」位な気持ちだったのです。そんな理由で始めた弓道もしっかり三年間続けました。私にとって「学校」というのは“辛くて、嫌な場所”というイメージがありましたが、弓道をする事によって、“学校は楽しい場所”というイメージを持つことが出来るようになりました。弓道そのものも楽しかったですし、なにより弓道部の仲間に恵まれたからだと思います。
ちなみに、この当時はますます「エンジニア」になりたい気持ちが強まり、最初は高等専門学校に進学するつもりだったのですが、両親から「せめて大学は行っておけ」とアドバイスを受け、工学部に入ろうかと思っていました。しかし、母の家庭はいわゆる「医師家系」で、私に対しても「医師になったら?」と言ってきました。それを言われたのが、高校三年生の間もなく冬の気配が訪れてきそうな時。この時期に医学部を目指して合格出来るほど、世間は甘いものじゃないという事は分かっていましたので、第一希望の工学部の他に、福岡歯科大学の歯学部を受験しました。歯学部の受験を終えた数日後、「まぁどうせ歯学部は落ちているだろう」という気持ちを抱えたまま、工学部の受験の為、福岡空港にいたのですが、その日歯学部の合格発表だった事を思い出したので、家に電話してみると「アンタ、合格していたわよ!おじいちゃんも“でかした”って言って、喜んでくれているわよ!」という母からの知らせがありました。
本来、このような場面では「よっしゃ、やったぜ!」と思うのが普通なのかも知れませんが、私は「あちゃ~受かっちゃったよ」という気持ちでした。もともと工学部に進学したかったので・・・。しかし次第に「まぁ、おじいちゃんも喜んでくれるし、歯学部に進んでみるか…」という気持ちになり、そのまま福岡大学歯学部に入学しました。それは私にとって、初めての一人暮らしのスタートでもあったのです。
今になって思うと、一人暮らしをした事が原因ではないかと思いますが、大学生になって初めて「あぁ、勉強というのは、このようにやるのか」というように、初めて真剣に勉強に目覚めたのです。周囲は医師や歯科医師の子供が多く、家を出て裸一貫で歯学部に入学した私は、そのような同級生達に負けたくない、という気持ちが強かったんだと思います。
ちなみに同級生の中でテレビの無い生活をしていたのは、私だけでした。おかげでその頃から本を読み始め、「あぁ、本って面白いなぁ」と、活字の魅力に気付き始めました。現在本をたくさん読んでいるのは、この時の経験が大きいように思います。
体格の良かった私は、入学当初からラグビー部の「勧誘」と言うには、あまりに強引な誘いを受けていたのですがそれには全く興味が有りませんでした。「このままズルズルしていたら、本当にラグビー部に引き込まれてしまう!」と危機感を持ち、「どこか体育系の部活動は無いか」と慌てて探したところ、バドミントン部を見つけ、ラグビー部から逃げるように、バドミントン部に入部しました。高校で3年間続けた弓道部もあったのですが、私の中で「他のスポーツにチャレンジしたい」という気持ちがあった事が、弓道部を選ばなかった理由です。そんな理由で始めたバドミントンもしっかり6年間続けました。また、3・4年生の時にはキャプテンとしてクラブをまとめていきました。ここでも素晴らしい仲間に出会えたのは私にとってとても幸せなことでした。
母の従兄弟に歯科医師をしている方がいたので、大学3年生の頃から夏休みや春休み等には技工の宿題をやりがてら、現場を学ぶようにしていました。この時から現場を見る事の重要性を痛感していました。今の私があるのは、当時一生懸命現場を見ていたからであると思います。
もうひとつ印象に残っているエピソードとして、大学4年生の時、入れ歯を作る実習があったのですが、完成品を祖母に見せると、自分が使っていた入れ歯を外し、私の作った入れ歯をはめてくれました。当然型が合う訳はないのですが、私の作った入れ歯を嬉しそうにはめてくれる祖母の姿を目の当たりにして、「患者様に喜んでもらえる歯科医師になろう!」と決意を固めました。
このような決意を持ちながら、国家試験の勉強をしていたので、勉強そのものは苦では無かったのですが、やはり試験範囲が広い事と、問題によってはかなり難解なものもあるので、やはり試験勉強は私にとってストレスでした。しかし「とにかく試験に通る!」と目標を明確にしていた為、一生懸命勉強し、そしてその結果無事合格し、歯科医師免許を取得しました。
資格取得後、大学の麻酔科に2年間在籍しながら、学生時代に通っていた母の従兄弟の医院で働いていました。麻酔科に在籍していたのは「歯科医師であっても、口の中だけではなく、全身を診れるようにならなきゃダメだ」という気持ちがあったからでした。
結局3年間、母の従兄弟の医院で働きました。患者数の多い医院でしたので、色々な症例を学べたのはもちろん、院長がかなり接遇応対に対してこだわりを持っていましたので「歯科医院と言えども、サービス業である」という意識は、3年間の勤務医時代の頃にしっかりと持つ事が出来ました。
「とにかく楽しく仕事がしたい!」そんな思いで開業しました。しかし、そんな私に対して
『二代目、三代目の院長ならともかく、お前は初代なんだからそんな程度の気持ちで、開業するのか!?』 『お前を信じて診療を受けてくれる患者様に対して、そんな気持ちで良いと思っているのか!?』
と、私を厳しく叱ってくれる先輩歯科医師がいました。その言葉のおかげ「あぁ、オレはこのままじゃダメだ。もっとしっかりしなければ」と決意を新たにする事が出来ました。決意を新たにした私は猛勉強を開始しました。働きながらの勉強は本当に血のにじむようなものでしたが、そのおかげで診療技術は大幅にレベルアップし、多くの患者様に喜ばれて、それが口コミとなり、更に多くの患者様に来院して頂けるようになりました。
現在、私は家内と出会い結婚して宝物のような子供にも恵まれ、独身時代に脇目もふれず突っ走っていた時代とはまた違った角度や広い視野で、物事を捉えられるようになりました。そしてもうひとつ、2006年の3月に大きな出来事がありました。それは、約3年間勤務してくれていたスタッフを病気で亡くしてしまった事です。もちろん、私が何かする事で彼女を病魔から救ってあげる事が出来た訳ではないのですが、一緒に仕事を頑張ってきた仲間を失うという事は、私にとってこれ以上ない大きなショックでした。自分の身体の一部を切り取られたような、そんな心の痛みを受けました。この出来事があり、ますます「うちの医院で働いてくれるスタッフを大事にしよう!」と思うようになりました。
そして現在…。平成7年10月4日この柳川の地で開業して、平成24年10月で丸17年、来院される皆様やスタッフに支えられてきた竹下歯科医院は、熱い想いを持った院長とキラキラ輝きながら活躍してくれるスタッフと共に来院される皆様にとってより心地良い歯科医院へと成長しています。これからも彼女達と共に成長し合いながら、患者様おひとりおひとりと真剣に向き合う歯科医院を作っていきたいと思っています。